琴音の煉瓦刻印発見録♪『千葉県行徳・コカ・コーライーストジャパン㈱市川セールスセンター』 [琴音の煉瓦刻印発見録♪]
『かつて私は悔しい思いをした』
それはと言うと千葉県市川市に残る国府台の旧陸軍武器庫(千葉血清研究所倉庫跡)の見学会でのことだったっす。
私は既存の『カタカナのホ』の刻印以外に『〇が二つ』の刻印らしきものを見つけ関係者さんにその画像を持ち寄ったんだ^^
内心、新しい刻印発見しちゃったんじゃない?わたしー(*´д`*)なんて思いながらご意見を伺ったの。
でも返ってきた言葉は『刻印じゃないね』・・・・・・だった^^;
それはホントに私の写真見たのかよってくらいの即答。
『ああ・・・そうですか。ですよね・・・ハイ^^;』とすごすごと退散したのはほろ苦い青春です。
あの時は二度とここの見学会に来るもんか!なんて思ったし、
既存のホの字の刻印の出どころはどこの工場だったんだろうと調べようかと思ってたのも止めちゃった(どうやら小菅のってことになってるみたいだけど)
勿論、こっちはタダの煉瓦好きな小娘ですよ。
先生方が違うねって言ったらそりゃそうだろうと思ったけどさ・・・
そんな千葉血清所跡の赤煉瓦倉庫も今年から恒例の見学会が取りやめになってしまったと言うニュースを聞きかじった。
なんでも有志さん達は市の保存を望んでいたけれど、
市川市はそれを断念。民間売却への準備に入ったから・・・だとか。
もう関わらないでおこうって思ってたけど、流石にそのニュースは寂しい。
嫌な思い出があったとしても歴史的価値のある煉瓦建築が消えてしまう可能性が出てきたならそれは別物だもの^^;
さて、
その悔しい思い出のある赤レンガ倉庫の刻印の出どころを探るのは止めたんだけどお
千葉県の煉瓦工場跡には興味はあった。
今日はその中の『ひとつ』を探ってみたんだお^^
実は私ってば『超絶、根に持つタイプ』なのだw
負けん気とかそんな表向きな言葉じゃ無いねw
『先ほどのニュース(市川市が民間売却へ)』を聞いた私は久しぶりに古地図を開いた。
赤レンガ倉庫のある千葉県市川市付近やその河川の流域にどれだけ煉瓦工場ってあったのか?
もしかしたらばその近隣の煉瓦工場の煉瓦も使われていたんじゃないか?ってことも含めてね^^
そしたらばーーー
ビックリするぐらい現・市川市界隈には煉瓦工場があったのよお。
これは明治30年代頃の市川町の江戸川流域。
少なくとも3つは煉瓦工場の記号が見えるっす。
(対岸の小岩付近に二つ)
こっちは先ほどの画像よりやや南東(現・龍神社付近)
そして今は市川市の一部だけれども、元々は南行徳村の押切付近にも煉瓦工場のマーク。
国府台から少し離れるし下流だけれど、明治当時は煉瓦の運搬には河川ってのは重要だったしね。
船なら大した距離じゃない^^
そんな中で、工場名が分かるものを探したんだけど、
こんだけ煉瓦工場がこの付近にあるっちゅーのに、
この市川市、昔の東葛飾郡付近で自分なりに調べて出てきた煉瓦工場は『稲荷木(とうかぎ)工場』だけでした・・・^^;
創業は明治31年1月。
国府台の赤レンガ倉庫の創建時期は諸説紛々。
明治34~36年とも言われてるけれど、
国府台に陸軍がやってきた明治18~19年代なんじゃ?とも言うしね。
もし仮に明治中期だったならこの稲荷木工場も可能性あるのかな?
さてと、この稲荷木工場ってのは『どこにあったのか?』を古地図で調べてみることに。
東葛飾郡行徳町稲荷木って辺りらしい。
するとーーー
うーん・・・
あれ?おかしいなあ・・・
煉瓦工場の記号が無いよおお^^;
そもそも明治の区割り(つまりはどこからどこまでが稲荷木地区なのか)ようけ分からんっすw
そんでもってその周囲を調べたらあーーー
そこより少し南部の旧・江戸川付近、
今で言う『市川市下新宿』に煉瓦工場記号を発見!
ぶっちゃけ赤レンガ倉庫とも稲荷木工場とも関係無いだろーなーとは薄々感じてはいたけど、
なんだかここに行ってみたくなった私。
ハマってる位置ゲー『レキシトコネクト』でも未開のエリアだし、
せっかくならばと探索に行ってみた(ここまでが前振りw)
やって来たのは『妙典駅』っす^^
ここが一番近いんじゃないかな~って思ったからね。
さて歩き始めてビックリ!
お寺の数が凄いこと!凄いこと!
街並みもどことなく古い!
徳川時代から続く寺町の一角だったんすね^^
おのずと煉瓦の匂いもプンプンしてきたっすよー
歩き始めて15分くらい。
行徳街道沿いに小さな建屋が見えてきました。
目の前に止まってるのは見慣れた赤のカラーリングのアレ。
ここは『コカ・コーライーストジャパン㈱市川セールスセンター』ってとこっす。
前調査の段階では『この敷地は元々煉瓦工場の場所』だったんす。
ぶっちゃけ行き当たりばったりでここに来たのだけれど、
可能性求めて煉瓦片でも探してみやしょうず^^
するとーーー
!!!???
敷地の外周は煉瓦敷きじゃないですか!(*´д`*)
少しの可能性だけでここに来たので私的に大歓喜☆
煉瓦の質感はまんざらでもない。
少なくとも新しいイマドキ煉瓦ちゃんじゃない(経験則)
んじゃー!
こんだけたっぷり煉瓦ちゃんが居るんだから早速しらべましょう!
当然、煉瓦の刻印だよ(*´д`*)
するとーーー
ん? ◎が擦れたような感じの奴が!
そしてコッチはクッキリハッキリ
『◎の刻印!』
むう、喜んではいけないいけない。
刻印の可能性もあるけれど、あくまでも可能性ってだけ。
これと同じ奴が他にもあったならそのパーセンテージはグッと上がるはずと言うことで、
その他の場所も探ることに^^
敷地に対してぐるりと巡ってみた感じ、
煉瓦に囲まれているのは行徳街道に面した部分と、
北側の側面ごく一部のみでした。
その北側の側面。古めかしいコカ・コーライーストジャパン㈱の事務所棟とセールスセンター棟の間の小道の煉瓦も見てみることにしたお^^
ふおお~、刻印は無かったけれど縮緬皺が数多く見て取れた。
これは自分的見立てだけれど、
少なくとも新しくて大正初期。
古くて明治中期の煉瓦ちゃんだと思うんだよね^^
さて、家に帰ってから色々と調べなおしてみたんす。
『これって本当に煉瓦工場の名残なのか?』をば。
このコカ・コーライーストジャパン㈱の敷地、
昭和の初め頃までは『煉瓦工場の表記』が地図に存在していました。
表記的には明治30~から昭和初期だから長く続いた煉瓦工場だったんじゃないかしら^^
さてと、
ここが稲荷木工場かと言えばそこはよく分かりませんでした。
多分、別の煉瓦工場だったんだと思います(地名的にも遠いし)
では、このコカ・コーライーストジャパン㈱の外周周りの煉瓦ちゃんは『工場の名残だったのか?』を推察してみたいと思うっす。
実はこのコカ・コーライーストジャパン㈱セールスセンター市川と言うのは、
野田醤油。つまりは『キッコーマン』の元所有地。
しかもキッコーマンって、かつては『利根コカ・コーラボトリング』と言う清涼飲料水の工場も抱えていました。
知らなかったからそれだけでも驚きだったんすが(マックスコーヒー造ってたのかよキッコーマンw)
以前はこの辺りに『野田の醤油工場』もあったそうなんすよ。
そこで見えてくるのは『醤油工場の煉瓦の名残説』っす。
なんせ野田市と言うかキッコーマンは煉瓦建築好きだったしねw
で、年表な感じでザっと書いてみやす
市川にあったとされる行徳醤油工場は永禄から???
↓
だけど地図表記的には明治30年頃から昭和初期まで窯業工場の地図記号。
↓
1962年に利根コカ・コーラボトリング市川工場が野田醤油の遊休地となっていた行徳工場跡地付近に設立。
本社屋は行徳街道挟んで向かい側の下新宿15番地。
目の前のセールスセンターの事務所棟もそのころからあんまり変わってないらしい。
( ,,`・ω・´)ンンン?
昔からキッコーマンの所有地だったところに煉瓦工場の地図記号って何かおかしくね???
もしかしたら・・・土地所有は江戸からキッコーマンだけれども、
遊休地時代(旧野田醤油行徳工場廃止~昭和中期)は煉瓦工場に貸し出ししてたとかかな?
もう訳わっかんないやーw
と言うことで推察も投げ出すことにしましたw(もっと調べれば見つかるんだろうが)
千葉県辺りの煉瓦工場跡調べはこの後もするつもりなので、いつかどこかで線と点が繋がったらいいですね。
さて、このまま帰ってもいいんだけどぉ
どうやらここから歩いて15分くらいのところに文化財指定の煉瓦ちゃんがあるらしいのでそこに最後の寄り道をしたよ^^
やって来たのは『加藤家住宅主屋・煉瓦塀』っす^^
かつて塩問屋さんとしてこの地で栄を語った明治後期の素敵な家屋っす^^
とは言え私的にはーーー
この煉瓦塀よね(ウットリ)
しかもフランドル積み!(*´д`*)
さっそく見える範囲で刻印探し!
でもでも刻印見つからず^^;
ん?
あらら。
なんか随分と目地が奥に引っ込んでて不安定^^;
あまつさえ目地も無い部分も存在・・・
それは主に補修部位だとは思うんだけど、それにしちゃ・・・随分と荒っぽいのね(崩れそう・・・)
貴重な煉瓦塀だし、もうちっと保存を考えて欲しいかな。
さてもう帰るのみ。
でもこの旧・行徳街道ってのは見るものすべてが『古』を求める者には楽しいストリートでした。
その中でもこの家
写真じゃ分かりにくいだろうけど、このお家、
宙に浮いてたんすよ^^
最初は曳家(ひきや。家屋自体をそのまま移動させる技術)かと思ったけど多分違うね。
古い旧家だし、家屋を持ち上げて土台部や基礎の補修をしてたんだと思うよ。
旧家は残したい!壊さず大事に長く残したいってことだと思います。
これこそ本当の『保存』ってヤツじゃないのかな?
そんな風に思った旧行徳街道の煉瓦工場跡地巡りでした。