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琴音の煉瓦刻印発見録☆『長野県岡谷・丸山タンク』 [琴音の煉瓦刻印発見録♪]
『こんなん近所にあったら秘密基地にしてる』
うちのおとんが昔『韮山の反射炉で遊んだことあるぞw』と、とんでもないこと言ってきたのだ。
・・・せ、世界遺産だよ?
怖いことすんな~とは思ったんすが、
おとんの子供時代には今のような価値観も無い時代だったのかもとも思ったっす。
(わたしがお父さんの子供時代に戻れるのなら、きっと反射炉内の写真撮りまくるんだろうけどね☆)
さて今回も旅先で見つけた煉瓦ちゃん。
駅メモで飯田線制覇を成し遂げて長野県岡谷市に到着。
そこにもやっぱり煉瓦はあったのですーーー
ローカル屈指の長大路線『飯田線』をクリアして岡谷駅に到着したあたし。
とりあえず乗り換えまで1時間近くあるみたいなのでプラプラすることにしやした^^
(お酒の補充もしたいしね!)
駅舎から出るのは初めてかな?
へえ~こんな外観なのね。
煉瓦チックでいいじゃない^^
さてと~岡谷についての前知識もほとんどないわたし。
駅前の観光案内版に頼ることにしたっす。
するとですよ!
うおおおおおーっ!
どうやらご近所に煉瓦構造物が遺構として残ってるみたいじゃない(*´д`*)
『丸山タンク』ですか。わたし気になります(*´д`*)
どうやら徒歩4分の駅チカ物件とのこと。
っつーわけで行きましょ行きましょ☆
目的の場所へと近づいてくると、少し雰囲気が変わって来た。
今までは道路に並行するように民家や店舗があったけど、
ここからは石垣もあってちょっと丘になってるっぽい。
ではその丘をのぼって行きやしょうず^^
如何にも丘の天辺付近ってとこに到着。
右手の古そうな家も怪しい。
ブロック塀の小脇を登ればーーー
おお~~!
なるほど素敵な煉瓦ちゃんじゃないのさー(*´д`*)
さてなぜ『なるほど』と言ったかと言いますとだよ
柵もトラロープも制止線も無いガチで触れ合えそうな物件だからだよん(*´д`*)
じっくり見ていきやしょう。ここだけで一時間費やすことに決めたしw
見た感じじゃ上部と下部で煉瓦の質感は違うよね。
継ぎ足したのかな?
タンクって謳ってるからには水に強い煉瓦と積み方が必要だと思うの。
積み方は上も下もイギリス積み。
煉瓦は~~下部が赤煉瓦で上部が焼過ぎかな?
周りには何かの出口。水が出るところ?
いやちょっと違うかな。
グルっとまわるとコンクリの台座みたいなのがあった。
なんだろ?
単純に発想するならタンクの膨張を外から支える、つっかえ棒的なものじゃないかしら。
さてさてさらにグルっとまわるとーーー
しっかり解説版がありやしたw
どうやらわたしっちが上って来たのは正規なルートじゃないのかもw
そこに記されたるものは、このタンクの形状。
『外周38m、高さ約2m、壁の厚さは60センチ強。』
どうやら煉瓦は外壁のみで内部はコンクリの三重構造のようっすね^^
そしてこのタンクは『何のタンク?』ってのが岡谷の歴史と共に綴られていやす^^
ここ岡谷市(旧岡谷村)は元々、長野県屈指の製糸業で発展した土地でした。
1910年以降、幾数の製糸工場が立ち並んだそうっす。
明治期の主力製造と言えば、工業はもちろん、製紙・皮革・浴衣染め・製紙。
今ももちろんそうですが、良質な製品をつくるには良質な水の確保必須だった。
当初は各工場自身の引水でまかなえていた水もやがて万年水不足へ。
だったらば『組合つくってみんなでタンクつくったほうがよくねーづらか?』
と言うことで、大正3年にこの丸山タンクが天竜川にほど近い小さな丘に出来たってことみたい(めっさザックリと解説しちゃったけど)
その下には昔の丸山タンク周辺図
中はこんなになってるらしいね。
見たいね~(すっとぼけ)
え?中がどうなってるのか見たい???
で・は・こ・こ・か・ら・い・き・ま・し・ょ・う・か・あ~(ニッコリ)
正直、若い女子のわたしっちでギリ。
成人男子の体格では潜るの厳しくね?ってとこを潜り抜けた先は、
写真の通り内部は二重のコンクリ層がグルリとしてやした^^
外周煉瓦は内側からだとこんな感じ
導水管口かな?
ちょっとよじ登って斜め上からの全体図?
なんかそのコンクリの上に煉瓦が適当?に置いてあるんすけど!
せっかくなんでーーー
チェック!チェック!
積んである煉瓦ちゃんは風化によって綻びた煉瓦を置いてあるのか
見た感じ質感もバラバラの煉瓦ちゃん達。
ピアノ線的な線もあるし機械成型でしょうね
残念ながら刻印は無かったかな^^
んじゃ~外周の煉瓦ちゃんもチェック行きやしょうず!
だってコッチは天辺の平面剥き出しだものお~(*´д`*)
(しかもグルっと一周38m分すべて!)
ピアノ線的な筋
煉瓦ちゃんの積み方を上から目線で見ると小口・小口・長手。
さすがに屋根も無いし風化の一途を絶賛辿っている丸山タンクちゃんだけども、刻印かは分からずともそれっぽい『へこみ』は幾つか見たよ^^
二かなあ?
これは・・・苦しいか?
こっちなんて更に苦しいw
まあ~と言う訳で、刻印ぽいのはほとんど見つからなかった訳w
ココは今となっては民家に囲まれた小高い丘。
子供時代にこんなとこあって自由に出入りできたのならどうします?
私だったら、お兄ちゃんと一緒に絶対秘密基地ごっこしてた自身あるねw
さて何だかんだで40分近く居たので駅に戻りやしょう。
丘から来た道とは別の道へと下ると陶管みたいなものがあちこちに。
丸山タンクと寄り添うように立つ古い民家も何かしら関係あるのかな?(写真右手の数軒)
いかがでしたか?
岡谷にはまだまだ多くの製糸業が栄えていた頃の痕跡が残っています。
乗り継ぎで時間が空いたからとかそんな理由じゃ無く、じっくり散策してみるのがいいかもですね^^
ではではまたどこかの煉瓦ちゃんでお会いいたしやしょうず(*´д`*)
※今回から新スマフォになったのですが、画像比をちゃんと設定してなかったせいで、こんな横長な画像になっちゃいやしたw
次回からは良い感じのやつで頑張りやす(まあ次はスマフォカメラじゃなくて普通のカメラ画像なんですけどね)
琴音の煉瓦刻印発見録☆『福岡・久留米市、遥拝台』 [琴音の煉瓦刻印発見録♪]
『宮城遥拝』
煉瓦の塔を登り詰めた私の目の前に現れたのは宮城遥拝と刻まれた石碑だった。
『宮城』と書いて『キュウジョウ』
これはかつて明治中期に使われていた皇居の呼び名。
そして『遥拝(ようはい)』
これは遠方(東方)の地に向かって拝むこと。
柳川市の煉瓦を見届けた私は、そこからそう遠くない久留米市の小さな丘の森の奥へとやってきました。
勿論、煉瓦構造物を追ってです。
見上げたそれは今までにあまり見たことの無い造形でしたよ^^
ではではスタートっす☆
やって来たのは久留米競輪。
・・・っつってもぉ~
ここには用事がございませんw
わたしっちが用があるのはーーー
その久留米競輪の裏手に広がる小さな丘っす^^
臨時駐車場脇を通っていざ!森の奥へ!
途中、左手に折れる登り道があったっす。
そこに私は足を踏み入れた。
すると鬱蒼とした木々の向こうに何かが見えてきた!
うおおおおおおおーーーっ!
ここっすよ!
これっすよ!
今まで煉瓦構造物を調べてきた中で、
『是非一度行っておきたいって場所リスト』ってのを常々メモ帳に書き記していたんすが、
その中の一つにようやく出会うことができやした(*´д`*)
まずはじっくり見やしょう(*´д`*)
積み方は上から下まで小口積み。
そして何と言ってもこの湾曲!!!
少しオーバーではあるっすが、まるで日本のお城の
『武者返し』のような素敵な反り具合(*´д`*)
森に佇む灯台のようなそのフォルムにまずは感動っす☆
えっ!?なぜ感動かだって?
煉瓦を弓なりに綺麗に積み上げるって結構大変よ?
ただ積み上げるだけだと外面はボコボコになるはず。
たぶん、ひとつひとつの煉瓦が特注であり湾曲したように積み上げているんだと思うの。
それだけ手をかけた代物だと言うことが伝わってくるっすよね^^
上部はどうでしょう?
特に意匠も装飾もない小口の段々っす。
裏手側に回り込めば入り口がありやした。
これはもう行くっきゃナイトっすよね^^
入り口上部は煉瓦の平面バリバリ。
というか、いつか落ちてきそうで怖い(といってもトンネル構造の力学もあるので落ちないけど)
さて中はと言うとーーー
敷き煉瓦ちゃんは全部煉瓦の平面剥き出し(*´д`*)
当然やっぱり刻印探しっすよね!
私の見込みだと久留米市のご近所にあった荒木の煉瓦とか大牟田の煉瓦じゃないかとふんでるんすが・・・
刻印らしきものは無かったっす( ノД`)シクシク…
・・・どうやら上れそう?
その階段もまた平面剥き出しなのでチェックしつつも登って行くことに^^
うわあ~雰囲気あるなあ~♪
とっても狭い空間なんだけれども、
まるで西洋の城壁の中を登って行ってるみたい(*´д`*)(中々、総煉瓦造りのらせん階段を上るってのは日常では無い経験っすよね?)
途中に小窓が。
見上げた時はそうたいした高さでは無いと思ってたけれど、案外高く感じた。
小窓の縁には煉瓦に英文字が刻まれていたっす。
最初は『なんだー、ここに来た悪い人が悪戯で彫り込んでったな~^^;』って思ったんす。・・・ヤンキーさんとかねw
・・・ん?
でもそれにしちゃー結構、左右対称で綺麗にイタズラ書き(彫り)したもんだとも思った。
(イタズラにしちゃ綺麗だよね?)
さあようやく頂上。
ここが私が出てきたところ。
その開口部もまた煉瓦積み。
辺りを見回せば、360度コンクリの低い手すりが備わってやした(もしかしたらばこの内部もレンガ?)
自分が抜けてきた開口部の天辺には何か石碑がありゅ!
???
えっと・・・篆書かな?これ。
最初は何て書いてあるのか分からなかったっす^^;
古文の授業や通ってた習字の授業で見たような字だなあ~~とは思ったけれど、もっと勉強しておくべきだったかもっす^^;
さて、一通り謎も深まって来たところで
この怪しげな煉瓦構造物について紐解いていくことにしようず^^
まずはこの地図を↓
これは昭和3年のこの地域の地図(矢印が今いる場所)
見にくいのでもっと綺麗な地図はこっち。
よく見るとご近所に広大であからさまに怪しい区画が存在するでしょ?(池じゃないよ?もっと下の方)
歩兵とか色々記述されてるでしょ^^
そう、実はこの久留米は明治の時代に陸軍の連隊が置かれた地域でもありました。
簡単に説明すれば今の自衛隊が居を構えていたと思ってもらえればいいかなあ(違うけどねw)
久留米連隊が発足したのは明治36年。
列強支配が強まるご時世、日本もまた隣国の防衛手段として各地に連隊を置いたのです。
ここは特に出征の足掛かりになる場所でもありました。
ここから飛び立った兵士がその後どうなったか?
それは戦争の歴史を知るものならばどれだけ多くの犠牲者がいただろうか語るまでも無いでしょう。
昭和17年。
その戦没者や不慮の事故にあった兵学の生徒たちを慰霊するために、
新たに陸軍墓地が建設されました。
それが今現在の久留米競輪場含めたこの界隈でした。
その中の施設の名残がこの森の片隅に立つ煉瓦の塔。
名前は『遥拝台』なんす。
この施設の意味合いは、恐らく当時の天皇陛下への礼拝だと思うっす。
当時、絶対的神である陛下のお住まいの皇居へと向かって、ここから戦死者の鎮魂の祈りをささげた・・・んじゃないかなあ。
だからこそ、しっかりとした煉瓦造りなのでは?
(※昔の煉瓦の戦争遺構は割と目地とか粗雑なことが多い。要塞や防壁等にかっこつける必要ないしね。
守ってなんぼだったし)
さてっと、一通り見たので戻ることに。
(※競輪場もここから見えるよ^^)
塔内部のアーチのある部位は何に使われていたんだろ?
悲しいかな、神聖な場所であったにもかかわらず現状はこんな感じだったりする・・・^^;
残念ながら刻印は無し。
ただし、それっぽいのならいくつか存在。
根気があれば・・・見つけたかもねw
さて、ここに来たなら『ワンセットでここも見なきゃ』と言う場所があるらしい。
それはここからめっさご近所。
せっかくなんで行きやしょうず(*´д`*)
---歩くこと1分(すぐ横ですw)
なんかメッチャ素敵な場所に来たんだけど(*´д`*)
ここは『円形野外講堂』と言う、
軍事従事者たちへの慰労のコンサートを開くために造られたんだとか^^
残念ながらココは立ち入り禁止なので、わたしっちの光学50倍ズームが火を噴くぞいw
ん?
あれ???
何か客席に当たる場所の土台とか煉瓦っぽくね?
ステージ中央の舞台にある扁額は『養其神』かな?
意味は何だろ???
誰かおせーてw
ステージ外周の小道を進めば、舞台裏側も見えてくることに。
んっ!?
おおっ!?
ええっ!?
表側からはコンクリの冷たいステージだなあと思っていたっすが、
裏手側に回り込んで覗けば、コンクリの解れた部位も含めて煉瓦っぽい構造物じゃないのさ!(*´д`*)
・・・う~ん、でもー
でもでもでもー・・・
随分と白っちー、白華した煉瓦だよねこれ?^^
コレってもしかして赤煉瓦でも白煉瓦でもない別なもの?
そこでお兄ちゃんたちと煉瓦巡りした経験を思い出すわたし。
そう言えばーーー
関西以西には特に『鉱滓煉瓦とかカラミ煉瓦みたいな鉱物生成時の不要不純物で煉瓦状に作り上げた煉瓦』の建物が沢山あったじゃん!
---もしかしてこの煉瓦に似てるようなブツもソレかな?
色々調べていくと、どうやら鉱滓でもカラミでも無いみたい。
幾つかの記述を見た限り、
『コンクリートがらで再利用したもの』らしい。
がらって何やん?
それは鉱滓煉瓦やカラミ煉瓦と同様、
コンクリート製造工程の際に出たコンクリブロックくずなどのリサイクル煉瓦ちゃんなんだってさ^^
屑も砕いて成型し直せば安価で使える建築材に成りえたってことっすよね~^^
とは言え慰問用コンサート会場の煉瓦はコンクリの屑煉瓦で、遥拝台は立派な純正赤煉瓦。
この差に当時の時代背景が見えてくるのも面白いですよね^^
・・・おお~っと、
そろそろ帰らないと東京行の新幹線に乗り遅れちゃうだわさw
せっかくの九州旅行でしたが煉瓦を見たのは今回これっぽっちw
でもまた来ますよ。
だって九州にはまだまだたくさん煉瓦構造物ありますから(*´д`*)
最後に、刻印一個も見れないんじゃ煉瓦刻印ハンターの名が廃るのでコチラを↓
この軍人墓地となっている正源氏公園の片隅で見つけた耐火煉瓦。
これで許してくださいw
ではではまた今度っす(*´д`*)
琴音の煉瓦刻印発見録☆『福岡県柳川市・並蔵赤レンガ☆』鶴味噌ほか [琴音の煉瓦刻印発見録♪]
『昔テレビで見かけたあの場所へ』
今回、わたしっちは煉瓦抜きのノンビリお正月旅行に出かけたんでやんすが・・・
でもでもでもー!
やっぱりせっかく遠地に赴いたなら普段は中々お目にかかれないとこに行きたくなっちゃうっすよね!(煉瓦遺構的意味で)
九州ぐるっと一周旅の最終日、
時間を作って何とか何か所か巡ってきたよ(*´д`*)
ではではスタートぉ!!!
西鉄大牟田線に揺られてやってきたのはここ『西鉄柳川駅』
それってどこなんよ?と言う関東人もいると思うのでコチラ↓
福岡県の南部に位置する『柳川市』ってところで~やんす^^
さてそこってどんなところと言われればーーー
こ~んな感じの風景にすぐ巡り合えるのだ^^
水郷柳川
かつては人もつかない湿地帯だったこの土地は『あること』によって変貌します栄えちゃうんです^^
水が邪魔なら御濠を掘ってそこに流しちゃえばいいじゃん。
その御濠を掘って出ちゃった泥土で宅地や畑を作っちゃえばいいんじゃね?
凄い逆転の発想。昔の人は頭ええっす^^
ほんとはもっと語れる部分もあるけれど端折るからねw
今ではその御濠を川下り(御濠めぐり)に利用して観光スポットになってたりするわけでやんす(正月だけど、この駅でほとんどの電車に乗っていた人が降りたよ。人気すごいね!)
さてこの柳川はそのせいもあって水運の街としても栄えた商業都市でもありやす(目の前は有明海)
明治の頃になると商業倉庫が幾つも立ち並んだ訳っす^^
その中でも特に煉瓦に注目していくよ☆
今回は福岡大の百武先生の『福岡地方の古い赤れんがの化学成分』って言うネットで見られるPDFファイル内に記述された建築物を参考に柳川市内を周ってみたの^^
(※白黒画像だったのでカラー化してありやす)
記述内には悲しいことに現存の煉瓦遺構は思ったよりも乏しいって注釈があるんだけれど・・・
それでも幾つかの煉瓦の名残があるらしい。
その中のいくつかを時間の許す限り廻ってみたっす^^
歩き始めてまず民地に煉瓦蔵が見えましたっす。
先生!ここ載ってないっすけど!って思ったけれどそれはおいておこうw
やって来たのは江戸期の藩学時代から歴史を重ねる超絶歴史のある伝習館高等学校(@_@)
そこにかつての名残があるらしい。
むう~・・・
一見、古そうに見えるけどここでは無いみたい。
(天辺は鳥の糞ばかりだしい・・・^^;)
御濠を伝って学校の裏手へと行きます。
するとそこには!
んん~・・・
びみょー^^;
ここじゃないのかなあ?
よくよく見れば
どうやら改修工事中らしい・・・(切ないなあ・・・)
さて気を取り直して先へと行きやしょうず^^
このご近所の市役所裏手にも古い煉瓦塀があるらしいのでそこを目指すよ!!!
そしたら学校と道路挟んで対岸に立派な煉瓦塀のお宅を発見(*´д`*)
刻印は見受けられなかったけれど不思議な煉瓦積み。
イギリス積みでもなくフランドル積みでもなく長手積みでもない。
門塀付近には煉瓦積みの小屋もある大きなお屋敷でしたっす^^
さてさてさて、
やっとこさ市役所裏の煉瓦塀ってとこにたどり着きましたぜ(ものの2~3分w)
えっとお・・・古いのかな?
でも先ほど見た民家の煉瓦塀と同じ積み方だココ。
(長手積みに横に何個かで小口が入る)
でも小口が入ってるってことは壁として厚みがあって裏壁にも煉瓦面がありそうだと思い、
市役所内からも見てみることにしたの。
ひょっとしたら外壁面だけ補修して裏側は昔のままかもしれないしね^^
裏っかわへと到着。
控え壁もあるし間違いなくこっちが裏側。
ん~どうやらこっちも同じかな?
表側で小口面が見えた部位は控え壁の付近に当たるんじゃないかな?
煉瓦片が散らばってるので煉瓦表面チェック!
縮緬皺も無し。
もしかしてここも改修されちゃったのかな?
(割と近代的な煉瓦成型の縦の線が薄っすらと入ってるし)
さて、記述にはもう一つ『御花』と言う柳川藩主邸宅があった区画にも古き煉瓦塀が残ってるとあったのですが、
この後の時間都合もあって泣く泣く断念(ちょっと遠いのよ、ここからはw)
でも最後にもういっちょ。
本来ならばーーー
今まで見てきた煉瓦の中でも最も柳川駅から最寄りの物件へw
別にもったいぶった訳じゃないっすよ?
最初から時間的にそういうふうにルート組んだだけだからねw
そこはこの柳川市でも特に有名なスポット。
お堀とワンセットでCMや映画にも使われたことのあるところでやんす^^
---歩くこと十数分
それはようやく見えてきた。
『柳川並倉赤レンガ』
あ~んやだあー!
お堀に映りこむ赤い三連の煉瓦蔵がチョーすてく(*´д`*)
さてこの三つ居並ぶ煉瓦蔵。
南棟・中棟・北棟。
実は年代がそれぞれ違うとのこと。
どれが一番古いか(最初に建てられたか)分かるかなあ?w
せ~い~か~い~は~~
『真ん中にある中棟』なんだそうっす^^
詳しい記述は調べきれなかったけれど、
真ん中の中棟が大正初期。
それを皮切りに大正7年までに左右の棟が増築されたそうっす。
じゃあ~せっかくだし望遠ですけど見ていきやしょうず(*´д`*)
真ん中の蔵の低層窓際は小口だけれど、
上面はーーー
ん?小口二個を挟んで長手とか、
小口三個挟んで長手積みとか良くわからん積み方w
フランドル積みっぽいイギリス積みみたいな変則?
さて後期となる左右の南棟・北棟はと言うとーーー
箇所によってはバラバラだけれどもドッチもフランドル積みに近い積み方っすね(◎_◎;)なぜ?
悪く言えば結構雑多。
よく言えば不思議な感じ。
煉瓦の建築の歴史のセオリー飛び越した積み方ですw
(普通に考えるならフランドル積みが古き積み方だし)
でもちょっと気になるところがあったっす。
それは市役所裏で見た煉瓦塀の積み方と、そのご近所の民家の煉瓦塀の変則的煉瓦塀の積み方に似ているなあ~ってとこっす(小口を二個や三個間に挟んだ長手積みとかね)
改めてお堀を挟んで並倉赤レンガを見てみる。
水面に映る赤レンガと合わさってその姿、佇まいにはほれぼれしたし来た甲斐があったと思いましたっす^^
いや!
やっぱまだこのままじゃ終われないっすよ!
だってーーー
刻印とか探してなくね?
さすがにお堀側から並倉赤レンガに近づくのは無理があるので表側へと廻って、
煉瓦刻印の可能性を模索することにしたっすよ^^
ちなみにその外側にも煉瓦風な建物があるけれど、どう見たって昭和か平成だし煉瓦じゃ無いよねw
おっとっと、
煉瓦にばかり意識が行き過ぎてこの並倉赤レンガの『正体』をお話をすることをすっかり忘れていたので紹介しておきやしょうw
この並倉赤レンガと呼ばれる建物、
それはーーー
『鶴味噌醸造株式会社』と言う、
創業明治3年と言う九州地方屈指の長い歴史を誇る味噌醸造メーカーさんの、元麹室でありんす^^
さて、もしかしたら赤レンガへの小道でもあるんじゃないかと表まで来たものの・・・
赤レンガへ通じる道は全て鶴味噌さんちへの敷地内ですw
直接交渉しかもう道がないわけです。間近に見上げることができるのはね^^;
・・・でもそんな時間もないしと、なかば諦めながら表門を通り過ぎる(むしろ直アポとか私にそんな度胸は無いw)
するとですよ!
神様はいるんですね。
勿論、煉瓦の神様が(*´д`*)
うおおおーっ!
鶴味噌さんちの駐車場脇(?)の瓶甕の前に煉瓦が放置してりゅうw
あからさま過ぎて笑っちったよw
とりあえずせっかく(?)用意していただいたので見てみることにするっすよ(*´д`*)
するとーーー
おお~!
見事な縮緬皺じゃないのお~(*´д`*)
と、なると、
機械成型初期だからかなりの年代物?明治かな?
そんな感じで次も見て行くと!
ん!?
うごおおおおおおおおー!!!
来ました煉瓦の刻印ちゃん(*´д`*)
こんな古そうな煉瓦ちゃんです。
しかも鶴味噌さんの駐車場(?)出入り口。
まったく関係ない煉瓦ってことは無いよね???
さて『大丸に三』と言う中々見ない刻印っす。
いったいどこの煉瓦工場だろう???
と言うか、そもそも関西や九州の煉瓦刻印なんて私ってば全然知識無いしねw
そこで今回は煉瓦刻印と言ったらパイオニアである、
『旧道倶樂部さんの九州地方煉瓦工場消長表』をチェックしましたっす^^
・・・
・・・
・・・?
・・・あれ?
九州の煉瓦工場にはそれらしい刻印が無い!?
うーん・・・
先生が分からないんじゃ自分には無理ゲーだと思った^^;
・・・ん?
あれ?
思い出せ!私。
そう言えば九州地方の煉瓦は明治初頭は特に『大阪などによる関西からの煉瓦を主に越県輸入してた』じゃんかお。
っつーことで同じく先生の『関西煉瓦製造業』の表をチェック。
するとそこに答えはありました。
『丸三耐火煉瓦』
明治29年が起こりの大阪の煉瓦工場。
耐火煉瓦ってのが少し引っかかるけれど(見た目は赤煉瓦だからね)
社名からしてそれっぽい^^
一応、先生も注釈で書いていたんだけれど刻印的には同じものが他にあります。
日本窯業㈱ってところも似通った刻印を打っていたかもと。
正直言えば鶴味噌さんの軒先にこの煉瓦刻印があったからと言って、
丸三耐火煉瓦か日本窯業の煉瓦ちゃんが並倉赤レンガに使われている煉瓦なのかは不明。
でも、こんなとこから何か手掛かりとか切っ掛けが見つかったりもするから、
やっぱり面白いんだよねー
煉瓦刻印探しってやつは(*´д`*)
まだまだ考察したいことは山積み。
でも先を急ぐよ☆
次回は『福岡県久留米市の競輪場裏の丘にある煉瓦』っす。
(※予告していた徳島・淡路島の煉瓦はこの次の記事以降に差し替えさせていただきます)
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